ちゃんとした英語教育

ちょっと気になる記事を見かけた.

地域の人材 英語講師に
近所の英語ができる人に小学校の授業を手伝ってもらうという試みがあるらしい.

水口さんは教員ではなく、小学校の近くに住む主婦だ。大学で英語を学び、予備校で英語を教えたことはあるが、小学校の教壇に立ったことはなかった。

水口さんに不安もあった。予備校で英語講師として教えたのは文法中心だったが、さいたま市は「覚えるのではなく身につける」(市教委)というコミュニケーション重視の授業を目指していた。しかも、JATの役割は、外国語指導助手(ALT)に代わるもので、授業中はすべて英語で話すのが基本。「チームティーチングがどんなものか、イメージがわかなかった」のも不安を抱く理由だった。

様々な人材や工夫が英語の授業を支えている。(塩見尚之、写真も)

これって,非常勤に授業を任せることで費用が浮いてよかったね(または地域の力を活用できてよかったね),という肯定的な文脈で書かれているのだと思うのですが,英語教育の素人に丸投げしている(水口さんの資質を問うているわけではないです)というのは,子どもにとって果していいことなのか.


自分の好みとして,「素人のボランティアよりプロに高い報酬を払ってなにかやるべき」というものがあるので,上の記事は専門家を場当たり的に利用するという意味でちょっと違うけれども,中途半端に英語を小学校でやるくらいなら,ちゃんと英語を教えられる人を育成して,中学校の英語教育の水準を上げた方が良かったりはしないか,という疑問.
語学には早期教育が重要だ,という合意があるなら,それこそちゃんとした英語の教師を手当てすべきだろうし.

ではボランティア活動としては何をやればいいかというのはまた別の問題として考える必要がある.




この記事が気になった背景の一つには,今日のプレゼンで,しゃべりだした途端全然英語が出てこなくて,「あれ,自分手こんなに英語できなかったんだ」と改めて気付かされたということがあるのだけれど.

もっともアカデミックなプレゼンの場合,「研究の中身>>発表の準備>>英語の良し悪し」という重要さの関係があるだろうから,英語の反省ばかりしていてもしょうがないのですが.



追記:
小学校教員募集について以下のような体験談あり:

このたび、我が市で英語の先生が居ない学校に慌てて
先生を配置することになったようで、しかも人材不足のようで、
私にまで人づてに話がきたのです。

教員免許を持っていて(保健と家庭科です。中、高の1級です)、
海外で暮らした経験があるけど(タイです。英語圏じゃありません)
私が小学生に英語を教えるなんて、子供に失礼だと思います。

片や、友人たちが頑張っている学校のように、すごく高いレベルで
しかも楽しく英語を学べる子供たちと、
ジャパニーズイングリッシュ発音で、英語教育の勉強なんて
これっぽっちもしたことが無い私では、差がありすぎるでしょう。

さらに追記:

日本の英語教師についてのRIETIの関志雄氏の記事

日本の英語教師のほとんどが、まともに英語を話せない。問題はむしろ、この状況が昔から分かり切っているのに、なぜ改善されていないのかにある。この答えは、やはり英語の先生たちが、自分の既得権益を守るために、制度改革に反対しているからである。

という意見のうち,「英語が話せない」という部分については,この記事に対する志村英盛氏のコメントの情報によれば正しいようだ.

文部科学省の「英語が使える日本人育成のための行動計画」の進捗状況報告によると英語教師のうち、TOEICスコアが730点以上は全体の20%です。

ただ,既得権益を守るため改革に反対しているというのはどうなのだろうか.英語が必要ない社会で英語ができる優秀な教師を育てるのためには,意識改革だけではなく,かなりの投資が必要ではないのか.そういう意味で,関氏の

質のよい英語教師が国内では確保できないのであれば、海外から来てもらえばよい。確かに今でも一部の学校ではネイティブの英語の先生を採用しはじめているが、学生の人数に比して明らかに不十分である。英語が必修科目のままでは膨大な人数が必要になるが、少数精鋭制に変われば、現在よりそれほど増えなくても済むであろう。
平均的日本人は、英語を勉強する時間を除けば、一生のうち本当に英語を使わなければならない機会がほとんどない。このことを考え、英語を必修科目にするのではなく、選択科目にしたらどうかと提案したい

という提案も,理にかなってると思う.ただし若いうちから英語の要不要を判断できることはまれだということを考えに入れなければならないが.身の周りでも英語嫌いで理工系の専攻を卒業した人が,仕事でかなり英語を使うことになって戸惑うという話をよく聞く.